丘の上に月が昇る・続

◆イタリアSF友の会◆

『Livido』冒頭部試訳

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たびたび紹介しています、イタリアのSF作家フランチェスコ・ヴェルソ(Francesco Verso)の長編小説『Livido』(2013年)。左の画像がイタリア語版の表紙で、右が英訳版の表紙。サイバーパンク仕立ての奇妙な愛の物語。

以前、著者に頼まれて、日本向けプロモーション用に冒頭部12ページほどを訳したことがあるのだけれど、「ブログで公開してもいいよ」ということで、せっかくなので訳文をアップします。

物語の簡単な紹介についてはこちら→「イタリアの本棚」第18冊目

以下、『Livido』冒頭12ページほどの訳です。これはオープニングにすぎず、物語はここから大きく動き出していきます。続きを読みたい方はイタリア語版か、英語版(タイトルは『Livid』)をどうぞ(書籍版とKindle版があります)。いつかは日本語訳を出したいものです。

上のリンクはKindle英訳版。

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リヴィド(Livido)

フランチェスコ・ヴェルソ(Francesco Verso)著

第一部 思春期‐二〇四〇年

第一章 〈チェーリ・ボレアーリ〉

愛する人間がすべていつか自分を拒絶し、あるいは死ぬ。

創り出すすべてがやがてごみ箱行きになる。

誇りに思うすべてがやがてごみ箱行きになる。

チャック・パラニュークファイト・クラブ

 十倍ズームにセットして、コッレ・ヴァストの頂から彼女を観察する。コッレ・ヴァストというのは、僕が大量のごみを漁りながら日々を送っている丘の一つだ。食事休憩のあいだと、指の感覚がなくなるほど疲れたとき、僕はパイロットシートに座って、作業着から軍用の双眼鏡を取り出す。

 アルバは、ここから二百メートル離れた〈チェーリ・ボレアーリ〉のショーウィンドウの向こう側にいて、僕が見ていることに気づかずに、優柔不断な客のために飛行クルーズを選んだり、関係を改善したいカップルにロマンティックな小旅行を勧めたりしている。

 倍率を十三倍にする。アルバの象牙色の爪が、とても上品にパンフレットをめくっているのが見える。彼女の香り、リヴァージングの染み込んだあの紙が、最後にはここに、ぞっとするほど汚い僕の手の中に行き着くことになるかもしれないというのは、おかしなことに思える。

 それでも、素材は同じ有機物だ。

 それでも、くしゃくしゃのカタログを手に持って、〈チェーリ・ボレアーリ〉に入って、僕の行きたい旅行をアルバに伝えるのは恥ずかしい。だって僕が行きたいのは、アルバと一緒に行く旅行だから。

 紙に残る香りは、そんなにすぐにはキップルに消されはしない。【※訳注 キップルとは、P・K・ディック『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』からの用語で、際限なく増え続けるごみや不要物のこと】

 下から呼ぶ声が聞こえる。

「ピーター! 体を動かせ、でなきゃ、今日の勤務からおまえを外すぞ」

 丘のふもとから、チームリーダーが僕の仕事に文句をつけてくる。僕は無視する。だって、別に失うものはそんなにないから。今日の分の賃金、つまり乏しいKなど、もらえなくても構わない。反対に、旅行会社の制服を着て、銀色の名札をつけたアルバの姿は、何にも代えがたいほどの価値があるのだ。

 ヘナで染めてポニーテールにまとめた髪は、社交的な空気を彼女に与えていて、そのせいか、どんな人だって、嘆き悲しみながら家に閉じこもっているよりも、ヴァカンスに出かけようかという気になってしまう。

「体を動かせと言ったぞ! 次に同じことを言わせたら、今日の支払いはなしだぞ」

 今日のところは、僕は満足できると思う。リュックには、まだ期限の切れていないメンタックスの丸薬が半分残ったブリスターパック一枚と、ジャンクランドで転売するつもりのエコレッテ煙草が入っている。

 双眼鏡をウエストポーチに入れ、椅子から降りると、泥だらけの細い道を跛行しながら進む。道の両側には壊れたテレビ、コンピューター、モニターや、黒ずんだボードが山積みだ。僕は灰色の煙の中に入る。あちこちに見え隠れする緑色と琥珀色――それはプリント基板の鋭利な破片だ。

 煙の火元は一つだけではない。帯のように連なる炎からたくさんの煙の柱が立ち上っている。

 たくさんの人影が、鼻をつく靄の中で動き回っている。

 素材を削ぎ取っている者がいれば、ごみくずをふるいにかけている者もいる。また、火の勢いを強めている者もいるが、それはいつだって火夫のラシャか、その代理のノルベルトだ。チームの他の者たち、ドゥッガンとポンゴは、絡まる多色のケーブルを拾っては放り投げている。僕らこそ、コッレ・ヴァストの運搬屋なのだ。

 僕はTシャツで鼻を覆い、ラシャに近づく。ラシャは僕よりも少し細身で、火遊びが大好きな子供だ。煙を防ぐために、毎日違うターバンを巻いている。僕は去年、マスクをするのをやめた。

 学校に火をつけたのはラシャだった。うっかりしてた、とラシャはことあるごとに強調する。今、彼は以前よりも良識を身につけていて、焚き火を注意して見守っている。

 物思いに耽ったような空気を漂わせながら、熱気に陶酔したラシャが、二つの火を棒で叩くと、火は一つになって勢いよく燃え上がる。それから弱まり、煤の渦を残して見えなくなる。再び燃えだすと、燃料として使用しているタイヤから銅線のロールを取り出して、水たまりに浸す。こうして手に入れたものが、彼の毎日の賃金になる。

 空気は、何かの混合物のにおいで満ちている。そのうち頭の上に降りかかってくるだろう。もしかすると僕らのところではなく、北のカリ・ノヴァに落ちるかもしれない。トゥイムがその方向に吹きさえすれば……。

 今、ラシャが回収できた金属をチームリーダーに渡し、リーダーはそれをリサイクル屋に持っていく。うまく行けば、それはKを引き出してくれる。ラシャの肩にいい方の手を置くと、彼も同じように返してくる。僕らの仕事では、口を開けずに挨拶する方がいいのだ。

 僕は賃金を受け取ろうともせず、アケレン川の側にある、出口の方向に続く険しい斜面に入る。

 もしかすると、もっと後に兄がちょっとした仕事を持ってきてくれるかもしれない。

 チャーリーは僕よりも前にこの仕事をやっていた。彼は僕に話してくれた。かつてメガロポリスの住人たちは、できる限り廃棄物を「目に入らなくなるほどに、気にならなくなるほどに、遠ざけておく」方を好んでいた、と。

 今は違う。今は各人がそれぞれ自分にふさわしいキップルを持っている。

 自治体当局は、ごみの別な地区への移送と売却を禁止した。このため皆、できる限りのことをしなければならない、でないとごみに埋もれて生きることになる。このために生まれたのがUPU――〈都市清掃ユニット〉(Unità Pulenti Urbane)――で、再消費を促進する任務を持った巨大な自動式回収ボックスだ。

 転売可能な外観を持ついかなる製品も、UPUはまず最初にその価値を検討し、それから保管場に移す。

 二度か三度か、何度異なる消費者の手に渡ってきたのかは分からないが、そんな中古製品の市場は、自身の運命に委ねられた廃棄物にまだ残っている価値を奪い合う者たちの仕事との競争状態にある。

 要するに、ごみ捨て場で無料で行われるショッピングは、低賃金の仕事の一日分の価値が充分にあるのだ。

 毎日僕は、コッレ・ヴァストと僕の家をつないでいるルチテの途中にある、〈チェーリ・ボレアーリ〉の前で立ち止まる。朝はアルバに気づいてもらおうと思い、夜は僕の体は汚れていて、ひどい悪臭の中で十時間過ごした後なので、そこを通るのを避けて別の道を行く。実際、夜には、ごみ捨て場の悪臭は衣服や体の隅々まで染み込んでいて、僕は焼き串のように成り果ててしまっている。しかも片手片足の欠けた串だ。

 ひどいにおいがアルバの胸のところにまで届かなければ、どうでもいいことだ。

 からかわれるのが恐くて、デッド・ボーンズのメンバーには言っていない。チャーリーにも打ち明けていない。きっと僕を馬鹿にするから。でも彼らは知らない。〈チェーリ・ボレアーリ〉に客が一人もいないとき、そして遥かな旅行の行き先を夢見ながら僕がショーウィンドウのプロモーションを眺めているとき、アルバは椅子から立ち上がり、外に出てきて、僕に挨拶してくれることを。

「申し込み期限間近」のパック旅行の広告の他に、アルバはいつもムーア神殿のホログラフィーを展示している。店の看板から外に向かって投射され、輝くメーセージが表示されている。

生物学は目的地ではない

ひとつの方向にすぎない。

シリコンチップがわれわれの

行き先なのだ。

 店の中には、いつもアルバしかいない。彼女と一緒に働いている者はいないし、彼女の代わりに働いている者もいない。彼女は朝から晩まで休むことなく一人で働いている。彼女は〈チェーリ・ボレアーリ〉のオーナーだから、自分の好きなように働いているのだ。

 一メートルも離れていないところまでアルバは近づいてきて、身をかがめて、僕の頬にチュッと軽くキスをしてくれる。それから僕の頭を撫でる。僕は彼女に笑いかければいいのか、泣き出したらいいのか分からない。僕にとって、よいことなのか、ひどく悪いことなのか、もはや分からない。

 僕はアルバを見上げる。僕の立場になれば誰だって、アルバの優しさが上辺だけのものなんかじゃないと期待してしまうだろう。

 見せかけなんかじゃないと僕は確信している。

 眼鏡と灰色の髭で変装してテレビ電話をかけてもアルバは怒らないし、変装がばれていることに僕が気づいても、冗談につきあってくれる。

こんなに彼女は魅惑的だから、僕は自分が誰なのかをつい忘れてしまう。

 こんなに彼女は魅力的だから、僕は自分のいる場所が分からなくなる。

 ごみ捨て場を漁るのも、こんな出だしの後ではましなことになる。

 だって僕は十五歳で、アルバは二十三歳なのだから。運命が僕に対して定めたあらゆる敵対的な条件の中でも、これは断然に悪意に満ち、僕を落胆させてくれる。克服不可能な条件であり、おまけにそのせいで僕はチャーリーの空威張りの餌食になる。チャーリーは、僕が〈チェーリ・ボレアーリ〉付近をしょっちゅううろついていることに気づき、ある日、その動機を突き止めようとする。時間を無駄にするな、と僕を叱るためではなく、僕の胸の高鳴りを台無しにして楽しむためでもなく、僕をからかうためだけに、この状況を利用する。

 地平線が雲でいっぱいのある朝、アルバからいつものように頭への切ない愛撫を受けているとき、店の後ろからチャーリーが急に現われて、僕の手を取る。僕が鼻水垂らした子供であるかのように。

「ピーター! 仕事中の人に迷惑をかけるなと何度言わせるつもりだ?」

 アルバはこうした当てこすりにはまったく関心がなく、これらの言葉が誠実なものかどうかという疑いなど、彼女の頭によぎりさえしない。

「大丈夫、この子は毎朝私に挨拶をしてくれるのよ。彼とおしゃべりするのは楽しいわ。この時間は誰もいないし……」

 アルバの優美な外見に完全に似つかわしい、説得力のある声。

 チャーリーは、先ほどの言葉のような偽りの笑みを浮かべる。

「お嬢さん、あんたの言う通りだ。でも俺は仕事に行かなきゃならないし、こいつはもうとっくに学校についてなくちゃならない」

 兄が何を考えているのかは分からないが、兄は僕を最低のクズに仕立て上げようとしているのだ。僕を年下の弟として扱うのではなく、おつむの弱い弟として扱っているのだ。学校は一年前から閉鎖されている。ラシャによって――誤って?――火がつけられたせいで、キップルに学校が飲み込まれて以来。入り口の鉄柵の上には、酸水素吹管の炎でかかれた文字、〈避難区域〉。格子柵の向こう側には、放棄され、ひどい死の感覚に蹂躙された区画が残されている。

 一年前から僕は、遠くにいる先生とメールのやり取りをして勉強している。月に一度は、Webのテレビ会議システムを使って、先生の授業を受ける。たくさんの問題に正答することで、試験に使用できる経験値が蓄積されるのだが、それが何の役に立つのか、僕には分からない。

 アルバは、鳥肌の立つような笑みを浮かべ、それからいつものように丁寧に制服を整える。制服は、僕をいい気分にしてくれる火曜日の虹色のスーツだ。

「それじゃあ、引き留めないわ。また明日ね、ピーター」

 僕は勇気を振り絞り、アルバから離れる。もしかすると、僕が彼女のことをいろいろ夢想していたことに気づいていないのかもしれない。

「じゃあ、アルバ。また明日」

 チャーリーは僕の腕をつかむ。僕はほとんど首をねじるようにして、アルバが再び机の背後に戻って脚を組むのを見る。もう一度手を上げて、挨拶をする。

「あの女のことは、もう忘れろ……」

 角を曲がるまで、チャーリーは僕をぐいぐい引っ張っていく。それから両手を僕の両肩に置き、壁に押しつける。

「どうして?」

 二十歳の兄は、僕には説明のつかないあざ笑いを浮かべる。

第二章 デッド・ボーンズ

人が求めるのは、われわれがわれわれの不幸な状態について考えるままにさせるような、そんなのんびりした、おだやかなやり方ではないからである……われわれの不幸な状態から、われわれの思いをそらし、気を紛らさせてくれる騒ぎを求めているのである。

パスカル『パンセ』)

 僕は、走るのが好きだったことがない。義足が全身の骨とうまく同調していないせいかもしれない。僕の骨を覆っている筋肉が糸のように細いからかもしれない。ともかく、デッド・ボーンズを追いかけているとき、僕は敏捷性に欠けていることを思い知らされる。

 普通の速さで走ると、ひざがきしる。それだけならまだしも、もし速度が増して、アスファルトの上で騒音を立てるようになれば問題だ。そうなれば、その音は、チャーリーに計画の変更を強いる嘆きの声となる。

「おい、ピーター。おまえはついて来るな」

「どうして? 僕も来ていいって言ったのに……」

「分かってる。だが、おまえの立てる音は大きすぎる。俺たちが見つかる危険がある」

 今月で三度目だ。だから彼らは僕以上に足の遅い者を仲間に選ぶことはない。

「家でおとなしくしてろ。あまり時間はかからないから。そうした方がいい」

 前回、彼らは愛玩用ロボット犬を見つけた。ゆっくりとした、ぎこちない動き、ラオンではとても人気がある。僕が到着したときは、ジミーがロボット犬の前足をつかんでいるところだった。いつものように、僕は後ろに控えていたが、彼が犬の二本の前足を大きく広げている様子がよく見えた。

 ジミーの僧帽筋は張りつめ、たちまちのうちに、犬の肋骨の砕ける音が聞こえてきた。犬は地面に横たわり、キャンキャン鳴いていた。二つにへし折られ、徐々に弱っていく。それから僕の方に這いながら進んできた。

 そのときチャーリーが、とどめをさすようにと僕に命じた。僕をテストするつもりだ。彼の弟だからといって僕がその恩恵を受けているなどと、誰に言えるだろう?

 今、腐ったオルディンヴァリ――コッレ・ヴァストの北側にある――のつきあたりから、歓喜の叫び声が聞こえてくる。デッド・ボーンズが生贄を追い詰めたに違いない。

 チャーリーは、僕が行こうとしていたのと反対の方向を指して、指を動かす。それから額の汗をふくと、向きを変えて走り出す。ふくれ面の僕はその場に取り残され、チャーリーは仲間たちに追いつく。

 僕は歩き出すのが遅れ、まずは痛ましい悲鳴が、それから他の者たちの興奮したような甲高い声が聞こえてくる。兄の命令に逆らわず、僕は向きを変える。だって僕は、少し前に回収屋のポストを手に入れたばかりの見習いだ。それも片手片足が義手と義足のおかげで、他の者では無理なところに入り込めるという理由で。それに、リーダーの命令に従わなければ、リーダーの弟の僕でさえ、皆にこっぴどく殴られてしまうだろう。でも、気づかれないようにうまくやればどうだろう?

「助けて! お願い!」

 悲鳴が聞こえ、僕は再び走り始めるかどうか迷ってしまう。正面の壁には、生物発光式のグラッフィート。

消費されないものは

キップルになる

 ムーア神殿の芸術家が、放射性のうじ虫を大量に貼りつけたのだ。虫が腐り果ててしまえば、シンボルとして体液を後世に残すことになる。

 ひざの安全装置を外し、義足を抜き取り、リュックに押し込む。片足でぴょんぴょん跳ねて、ゆっくりと、しかし確実に走る。百メートル進んで、孤立した空き地の前にたどり着くと、角の後ろに身を隠す。突き当たりには、朽ち果てたヴィスコニアの建物が見える。以前はペンキとエナメルの工場だった建物で、周辺の壁は崩れ、残骸の山になり果てている。

 携帯端末を取り出し、このエリアのポップアップを読む。とある夜間営業の薬局が、あらゆる疑わしい液体のスキャニングを無料提供し、SaniBoxのボトルを五〇%オフで安売りしている。正面の修理工は中古タイヤ一組を処分しなければならない。オルディンヴァリの市営共同住宅一四四五は、配水管の修理の作業を待っている。

 僕は熱源映像に目を移し、四つの熱源を確認する。デッド・ボーンズのメンバーたちの体だ。それから金属スキャニングによって、彼らがシュリケンとナイフ、鋼のチェーン二本、ゴルフのアイアンを携えていることが分かる。

 携帯端末を閉じると、彼らが獲物を取り囲み、その獲物をたくさんの廃物とまだ新鮮な不活性のごみの片隅に押しやっているのが見える。

 コッレ・ヴァストへのキップル放置という犯罪行為は気づかれていない。ここにはUPUがめったにやってこないからだ。一次市場の消費者の居住地域の外では、価値のある産業廃棄物を奪う目的で、投石や、銃弾掃射や、バズーカ砲によって破壊される危険があるのだ。

ゾーマエスペリアといった場所には、もっと健康的な空気が漂っている。

よく見える場所を探して、僕は再び義足をつけ、半分錆びた非常階段を頑張って上る。

四階からだと、今日の狩りがどんなものなのか、もっとはっきりと分かる。四対一。あまりフェアとは言えないが、ある種の娯楽は、社会的満足の古典的な枠組みを越えている。それにデッド・ボーンズは自分たちだけでうまくやりくりできていて、こうした襲撃による稼ぎで、放蕩の代金が支払われているのだ。

僕は家に双眼鏡を置き忘れてきたので、目を凝らさないとよく見えない。ちょうどチャーリーが獲物にシュリケンの狙いをつけたばかりで、腕を伸ばして投げるところだ。

 尖った物体が夜に向かって弧を描き、シュッと音を立てて回り、獲物の肩に突き刺さる。皮膚に深く食い込み、しっかりと固定される。金属の薄板が別の薄膜に突き刺さっている。

 影になったその姿が、月の薄明かりの下にくずおれる。微風にほこりの渦やビニール、紙切れが巻き上がり、僕にはよく見えない。

 地面に倒れると、細身の女性のように見えるその獲物に、さらにきらめく刃が浴びせられる。脇腹、背中、両腿に。生贄が顔を上げ、慈悲を請う。

 無駄な行為だ。なぜならデッド・ボーンズは、その非道な振る舞いの残酷さでは悪名を轟かせているから。

 さらに言えば、この襲撃が次の襲撃の費用を支払うのに役立つことなど、犠牲者にとってはどうでもいい情報だ。

 それから、頭がおかしくなるほど陶酔して、狩りを称える彼らの姿を親たちが見たなら、きっとひどく心配するに違いない。

「チャーリー、こいつは俺にまかせてくれ。なんてケツだよ、おい」

 ジミー・ロンボは、淫靡な果実を思い出させるものに弱い。こんな二つのアンズの実を見れば、彼はよだれを垂らしてしまう。

 僕が知る限り、ジミーはけだもののようなやつだ。ルナ・クレシェンテの最後のパーティのときに、彼がキヌークのメンバーの鼻を噛みちぎって血まみれにし、ビーティング・ビートルズの一人の耳をずたずたにしたのを見た。それも、ドリンクの列に並んでいたジミーの前に横入りしたというだけの理由で。

 ジミーは、その場の序列が守られないときには、こっぴどくキレてしまうのだ。

 母親は、ジミーがようやくはいはいできるようになると、おしおきをする際には、彼を家の裏手に連れ出し、箱の中に入れて、それに電気コードを巻きつけて出られないようにしていた。

 父親はもっと乱暴であり、飾り鋲のついた革ベルトを使ったおかげで、ジミーの気質は磨かれ続けた。ジミーは、「厳しい教育」と言われるものの賜物なのだ。

 この光景全体が活気づいたように見えたそのとき、握力を強化するためにフィンガータッチの手袋をしているチャーリーがジミーの方を向いて、指の合図で黙らせる。それから前に出て、武器を持たない獲物の周りを歩き回る。

「お願い、ひどいことしないで。持ってるものは全部あげるから」

 獲物は迎えつつある最期のときを直感した。考えられる最良の社会においても、かろうじて生き残ることができるのは、いくつかの生命の形態のみ。あらゆる環境はそれぞれ捕食者を保有し、あらゆる市場はその再消費者を保有する。

「馬鹿なことをほざくなよ。おまえはキップルだ。キップルは要求を出したりしない」

 そのとき彼女は、避けられない事態をなんとか避けようとして最後の試みを行なう。

「リゾーマには友人がいる。私を生かしておく価値はあるわ、信じて」

 規則的な間隔で嗚咽を漏らし、涙で両目は溶けたように見える。二本の黒い筋が顔の上を走り、顎の先にまで届いている。

「生かしておく価値がある? 言いたいことはそれだけか!」

 チャーリーはせせら笑う。ジミー、レニー、ミッキーの三人は、賛歌を歌い始める。その歌は彼らの士気を高めてくれる。

キップルを狩れ! キップルを狩れ! キップルを狩れ!」

 それから、金属の絡まる耳ざわりな鋭い音がして、僕の体の毛が逆立つ。チャーリーは彼女に襲いかかり、両手で彼女の首を外そうとする

 彼女は恐怖に取りつかれて悲鳴を上げ、僕の兄は彼女の首をねじる。まるであらゆる位置に動かせる刻み目付きのリングナットを回しているかのように。僕は両手で顔を覆い、開いた指のあいだからその光景を見つめる。

 チャーリーは身をかがめて力を込め、大きく広げた足でしっかり自分の体を支える。少しばかりの光が周囲を照らしている。誰も顔を覗かせることはないのに。夜、コッレ・ヴァストでは、人はカーテンの背後で生きているのだ。

 このとき、女は不自然な仕方で身をよじり、“クリスピー”レニーと、ミッキー“ムーコ”は、チェーンを伸ばした。僕は、彼女が誰なのか気づく。

 賛歌が催眠術のように続けられる。

 キップルを狩れ! キップルを狩れ! キップルを狩れ!

 怒りが絡まりとなって、僕の喉の奥につまる。彼らが八つ裂きにしているのは、アルバだ。僕が一年前から気になっている女性だ。

 できることなら僕は恐怖の叫び声を上げたい。でも、できない。

 できることならこの責め苦をこれ以上味わわないように、たとえ骨が反応しなくとも僕はここから逃げ出したい。でも僕は沈黙したままで、動けないままだ。見つかった場合にデッド・ボーンズから受ける罰への恐怖のためなのか、それとも僕を虐げる苦悶のためなのか、分からない。

 チェーンが地面に触れる音が聞こえる。音を和らげるためにゴムが張られているが、痛みは和らげられない。メンバー全員、チャーリーの側にいることで、自分が強くなったように感じている。

「やめろ! 俺がこの手でやる。もう少しだ」

 僕は、兄がこれ以上ないほどにアルバの首をねじり、唇をゆがませるのを見る。それからアルバのまぶたが蝶のような速さでまばたきする。半分閉じ、世界に別れの挨拶をする。

 彼女の血の気のない瞳孔から光の帯が飛び出す。空に向かって光が高く上がっていく一方、僕の兄はしっかりとアルバの頭部をつかんだままだ。素っ気ない音を立てて、まるで栓を抜いたように首の骨から外れるまで。

 チャーリーがアルバの頭部を吟味しているとき、僕は泣きかけている。嗚咽を漏らし、ひざは折れ、倒れないように窓じきいにしがみつかなければならない。

 兄の瞳のきらめきは、その歓喜の嘲笑とともに、僕の心に映像として永遠に残ることだろう。

 兄は処刑人だ。そして、僕は青ざめる。

 血が体のあちこちから顔に上がってきて、僕は何もできない。興奮するたびにそうなり、衰弱し、青ざめる。

 そして、このことはすべて、彼女が僕らのようではないからなのだ。

 それに気づいた今、僕はチャーリーの警告が理解できる。

 彼女は、別の体に、人工的な体に移ることにしたのだ。その体は、生物的な死の限界を超えることができる。その選択は、こんなひどい扱いにはふさわしくない。彼女はこの体を得ても、それほど長いあいだ生き続けることはできなかった。

 チャーリーは、首だけのアルバに儀式のように口づけし、それを地面に置き、リュックから取り出したアイアンを使い、上半身を申し分なく動かして、遠くに打ち飛ばす。見事なバックスイングで、頭部は正面のキップルの小山の天辺に着地する。

「あとは全部おまえらのものだ。思う存分楽しめよ」

 賛歌が解放の叫びに変わる。このときまで抑えられていた興奮が、悪童たちの腕に、足に、流れ始める。

キップルを狩れ! キップルを狩れ!」

 デッド・ボーンズたちは跳び上がり、首のない体の残骸の周りに駆けつける。一週間待ち望んだ饗宴に、ようやく招かれた飢えたハイエナたち。

 指一本ほどの太さがある動脈のケーブルを切ると、そこから火花が飛び出す。弾性の継ぎ目を切ると、だらりと長く伸びて、パチンという音とともにちぎれる。軟骨のような小片をもぎ取る。三分のあいだにアルバは解体され、基本のコンポーネントに成り果てる。

 獲物の分配の決まりごとに従って、各人が戦利品のパーツを一つずつ手に取る。クリスピー・レニーが両腕、ミッキー・ムーコが乳房つきの胸部、ジミー・ロンボは尻を望んで不平をこぼしたが、結局は両足、そしてチャーリーはその残りを、つまり腰部を。今まで誰も抜け駆けをしたことはなかった。

「とっととジャンクランドへ行くぞ。この馬鹿女はどこかの衛星に救助信号を送った。急いでここを離れないと」

 昨晩注入された代用血液が広がって朱色の血漿の水たまりを作り、この場所で殺人が行なわれたことが示される。

 これは犯罪なのだ。たとえ明日になれば、その染みが地面に吸い込まれてしまうとしても。

(第二章終わり)